最強の男

 

実に半年ぶりの執筆です。

このブログを開設後3記事目にしてお久しぶりですというご挨拶をしなければならないことに対して、現代風に言うと「草しか生えません」と言ったところでしょうか。

 

書きたいことがなかったわけじゃないし、実際下書きには書き途中の記事が3つほどあります。だけどなんとなく途中で、また後でにしよう。いいやーまた明日で。と思って放置してしまった記事達です。

やはり、「また明日でいいや。」の「明日」は永遠に来ないのかもしれません。

 

ただ今回の記事は、2日前くらいにパッと思いついてどうしても書きたい、書いておきたい、これは書かなくてはいけないという猛烈な執筆意欲に襲われて数ヶ月ぶりにはてなブログのアプリを開いた次第です。

 

ただひとつだけ忠告しておきたいのは、こんだけ壮大な前フリを掲げた記事であるにも関わらず、多分読んでくださった方に同意は得られにくく、下手すると軽蔑されたり人間性を疑われてしまったりする可能性もあるということ、それでも今の自分を構成している大事な要素のひとつであることに違いはないため、自分で自分を見つめ直すためにも書きたいと思った、自己満of自己満of自己満な殴り書きであること。

これだけ、ひとつのマナーとして、書き残しておきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人が人を好きになる時、何を以って魅力を感じ、好意を持ち、愛という感情に発展するのか。それは人それぞれ違うはずだし、いくつかの条件はあれど、それぞれが占めるウェイトには少なからず差があることと思う。

 

私は異性愛者であるため、恋愛対象は男性。そして、男性に好意を抱くポイントとして自分の中で大きすぎるくらいのウェイトを占めているのが、「容姿」である。

もうこの時点で、あぁこいつは…と、ため息をつかれてしまっているかもしれない。申し訳ない。

自分がいかに容姿を重視し、それを曲げることが出来ずに29年間生きてきたのか、それに気付いたのはつい最近のこと。

それに気がついた経緯についてまずは書きたいと思う。

 

 

人生遡ること13年ほど前、私は高校2年生だった。セーラー服が着たいという気持ちだけで受験勉強に打ち込み、もともと学力的に割と厳し目だった学校に最終的には余裕の点数で合格し、毎日元気に自転車で30分かけて学校に通っていた。

1年生の時よりも話の合う友達が出来て、毎日それなりに楽しく学校に通っていたある日のこと。今でも覚えているゴールデンウィーク明けの5月半ば。

私は自分の教室の中にものすごい自分の好みにぴったりはまるとんでもない王子様がいることに漸く気付く。新しいクラスになって1ヶ月半ほど経ってから。遅すぎる。一体それまでの1ヶ月半私は何を見てきたのか。

鮮明に思い出せる、午後イチの古典の授業。いちばん廊下側の席だった自分は、なんとなく授業に飽きていちばん遠い窓側の席に目を向けた。

その時、廊下側から数えて3列目、つまり私とは1列挟んで隣に座っている男の子が、私が窓側の席を向くのとほぼ同時にこちらを見て、完璧に目があった。

 

その瞬間、たとえ話ではなく本当に体に電流が走った。

ちょっと待って何この人?

え、かっこよすぎでは?

待った待った待った、見間違いでしょ。幻だよ。

あんなかっこいい人が同じクラスにいるのに私が1ヶ月半も気が付かないわけない。

いや、ありえないありえない。幻だわ。

 

そう思って一度俯き、全ての感情をリセットしてもう一度、幻影が映り込んだ席をチラ見した。

 

ダメだ。いるわ。本物。どうしよう。

 

幻ではなかった。手足が本当に震えてノートがまともに書けなかったことを覚えている。

見たい。もう一回見たい。でも見すぎてキモいって思われたらどうしよう。でも見たい…

そんな葛藤に苛まれている内に古典の授業は終わった。

 

もう私の心はその日から彼のことでいっぱいになった。彼、という言い方だとなんだかくすぐったいので、ここでは「つばめくん」と呼ぶことにする。理由はなんとなくかっこいいから。

毎朝ギリギリの時間に教室に入ってくるつばめくん。教室のドアがガラリと開く瞬間の、つばめくんかも!?という謎のドキドキ感はたまらない。席替えがあればつばめくんより後ろの席になるよう祈り(毎時間大好きな背中を観察できるから)、金曜日の帰り道は、これから2日間つばめくんを見ることができないのかと落ち込み、日曜の夜はまた次の日から5日間つばめくんを拝み倒せることを神に感謝しながら眠りに就いた。

つばめくんに会える唯一の場所、通っていた学校の2年4組という教室が愛おしすぎて気がついたら3年間まさかの無遅刻無欠席で最後の終業式かなにかで謎の表彰をされたこと、今でも見渡す限り大草原しかない。(つばめくんと出会うまでの期間も幸か不幸か体調を崩すことがなく無遅刻無欠席だったの、ネタでしかないよ)

かなりの年月が経った今でも全ての気持ちと情景を思い出せる。きっと30年経っても50年経っても、忘れていないだろうと自信を持って言える。

 

 

つばめくんとどんな時間を過ごしたか、初めておはようと声をかけておはようという言葉が返って来て失禁しかけた時のこと、アドレスを聞き出すことに苦労したこと、初めて返ってきたメールは携帯が壊れるまでずっと保護していたこと。高校を卒業してからメールで想いを伝えたこと。

この辺に関しては書くと長くなりすぎるし、今回の記事で書きたいことの本筋から若干ずれるので割愛します。

 

 

とりあえず今回の記事で大きな鍵となるつばめくんとの馴れ初めと、私がいかにキチガイ染みた感情を抱いていたのかはしっかり説明できたと思うので、いよいよ本題に入りたい。

 

 

私はつばめくんのどこに惹かれて、なぜこんなことになるまで好きになってしまったのか。

察しの良いみなさんならもうお気付きかと思うが、ズバリそれは見た目。容姿。その言葉に尽きます。

私はあまり顔のパーツひとつひとつをまじまじと見るタイプじゃなくて、なんとなくの全体図を見るタイプだけど、改めてひとつひとつのパーツについて考えてみても非の打ち所がないルックスだったと思う。

顔はもちろん、その顔の良さを存分に引き出すために最適な髪型、制服の着こなしも変に腰パンしたり崩しすぎず、だけどカッチリしすぎてダサいということもない、制服着こなし選手権があれば3年間優勝し続けてつばめくんが殿堂入りしていただろうなと思う奇跡の着こなし術だった。体型だってものすごい痩せてたり太ってたりということもない、ガッチリしているわけでもなければヒョロヒョロしているわけでもない、だけど軸がしっかりしているタイプの骨太型。声や仕草ひとつ取っても私のために存在している概念なのかな?と錯覚を起こすレベルで完璧だった。

本当に、完璧だった。奇跡だと思っている。

 

 

高校を卒業して大学生になり、新しい出会いがたくさんあって、それなりに好きな人ができたり合コンしたり、つばめくんが日常にいなくなっても私の日常はそれなりに華やかで楽しかった。

だけどつばめくんの完璧な容姿のことはずっと覚えていたし、ずっとずっと大好きだった。

そんな矢先に事件は起こる。

 

つばめくんはツイッターをやっていた。私もやっていた。もちろんツイッター上で繋がっているわけではなかったけど、彼のアカウントには鍵がかかっていなかったので、時々魔がさした時にこっそり覗いていた。

 

そこで見つけてしまったひとつのツイート。

詳しく書くとこれを読んでくれている人につばめくんが嫌われてしまうと思うのでぼかすけど、明らかに私のことをdisっているとわかるツイートがあった。どう好意的に考えてもこれは私のことを言っているし、完全にdisってる。

disってるという言葉だと語弊があるけど、明らかに私のことを面白がってネタにしてくれていた。

 

ひとつの時代が終わったと思った。つばめくんがそんなことする人だと思うと悲しかったし何より自分がつばめくんにとって嘲笑の対象だったことが悔しかったし今すぐ消えたいと思った。

 

 

だけどその気持ちは1週間と持たなかった。

 

 

私はネガティブでもあるけど、ひとつの壁を乗り越えると周りがドン引くくらいポジティブになる。

 

 

つばめくん、私のこと卒業してからも思い出してくれてたんだ!!!!!覚えててくれてるんだ!!!!!名前を聞いても思い出せない、誰?みたいな存在になるより5億倍マシじゃない!?!?!?私、勝ち組じゃん!!!!!

 

 

 

なんという芸人魂。自分で自分に引きます。

だけどある日を境に吹っ切れて、また再び自分の中で最強の男につばめくんが返り咲いた。

 

 

 

それから今まで、自分の中の最強の男という椅子からつばめくんが降りたことはただの一度もない。

 

ここで私の顔面至上主義の信憑性を極限まで高めてくれる、つばめくん以外の重要人物をご紹介しよう。

私には3年ほど前まで付き合っていた彼氏がいた。

付き合い始めた時の私の年齢は24歳。

毎日が幸せで、ものすごく楽しい日々を送っていた、らしい。

らしい、というのは、正直もう私はその時の感覚や景色や心情がどうしても思い出せない、というよりはぼやけてしまって、思い出せることはあってもその時の自分の気持ちに自信が持てない。

幸せだったことはなんとなく思い出せる、大好きだったこともぼんやり浮かんでくる。あー、あの時すごく私笑ってた気がする、そういえばあの時楽しかったかも…

でも、幸せだった!最高だった!毎日笑ってた!大好きで仕方なかった!って、自信を持ってなぜか言えない。

それにはきっと色んな背景があって、付き合っている間に本当に色んなことが起こってしまって、人間としての尊厳を踏みにじられるようなことがあったり、裏切られたり、傷つけられたり、そういう理由ももちろんたくさんある。

この時の彼氏にされたことや言われたことは今書いても長くなるだけで、今回の記事の本筋に大きく関わっているわけではないので割愛していつか改めて記事にしたい。(謎の願望)

 

だけど、今私が振り返って思うこと。

人間として最低最悪なことを言うけど、多分私はその時の彼氏の容姿が別に好きではなかったんだと思う。

もちろん容姿の他に好きなところがたくさんあったし、だから付き合っていたわけだし、大前提として付き合っていた時に、この人の容姿微妙だなと思ったことは一度もない。

だけど、この人の顔かっこいいなぁ…好きだなぁ…美しいなぁ…と思ったことは、正直ない。

好きだから、やだかわいい♡とか、この仕草萌える♡みたいなことはあったと思う。だけど、容姿だけにフォーカスして考えた時、自分の好みという直線上に彼が立っていたかというと、答えはNOである。

 

 

私は、もう何年も顔を合わせていないつばめくんのことは今でも大好きだし、結構な勢いでひどいことをされたと自分でも思うけど、あの容姿のおかげでその嫌な思い全てが吹き飛ぶどころか、吹き飛ばした上で大量のお釣りが自分の心に返ってきている。

一方で当時の彼氏に関しては、つばめくんよりずっと個人的な幸せをもらった記憶がぼんやりだけどあるし、友達への惚気LINEやアルバムを見返してみると、ふたりだけの大切な思い出がたくさんあったことがわかる。つばめくんには無い、ふたりだけの大事な大事な数年間が私と当時の彼氏にはある。彼にされたことや傷つけられたこと、裏切られたこともたくさんあるけどそれに関してはつばめくんと同じ条件だし、多分側から見たらつばめくんが私にしたことの方が若干ではあるけど外道扱いされることのような気もしている。

 

だけど私の中の「最強の男」という椅子に今でもずっと座っているのは、ふたりだけの大切な日々や思い出が形として残っていて、周りが羨むほどの幸せな時間を共にした(らしい)当時の彼氏ではなくて、たった1年間同じ教室で過ごした40人弱のクラスメイトの中のひとりであるつばめくんに他ならない。

 

 

それは、つばめくんと一緒に過ごしたわけじゃないからだとか、もしもつばめくんと付き合ってたら嫌なところもたくさん見てしまって嫌いになってたかもしれないとか、挙句お前が今でもそこまでつばめくんのことが大好きなのは手に入らなかったからだなんてことをよく言われる。

 

それらの理屈は一見、一理あるように聞こえるけど結局のところ違う。

 

私はつばめくんの見た目が本当に大好きだった。もうこの記事の中で何度も言ってるけど、本当につばめくんの見た目が大好きだった。

つばめくんと付き合ってたら嫌なところをたくさん見て嫌いになっていたかも知れないと言われたところで私はつばめくんの嫌なところをもう既に見てしまっている。だけど嫌いになってない。だからその理屈は違う。

よく聞く言葉だし私自身も何度も言われた、「今でも大好きなのは手に入らなかったから」?

 

手に入ってたらもっともっと大好きになっていたに違いないわ!!!!!!!!!ボケ!!!!!!!!!!!!!!!

 

 

と、本気で思っている。

 

 

私はつばめくんに酷いことをされたし言われた、なんならその発言は誰もが見られる場所に投稿されて全世界の人が見ようと思えば見られるところに一生残っている。

この言動をつばめくん以外の人がやってくれたとしたら私は発狂しているしなんらかの方法で復讐していたかもしれないし、その人を社会的に抹殺してしまおうと考えたかも知れない。

だけどつばめくんだから。顔がかっこいいから。すごく見た目が好きだから。その気持ちが圧倒的勝利を遂げてしまった。

そして出会いから13年ほど経った今でも、つばめくんと同じ教室で過ごしていた時の気持ちや出来事はどんなに小さいことでも鮮明に思い出せる。

 

一方、3年前まで付き合っていた当時の彼氏のことはもう1ミリも好きではないし、なんならあの時の思い出とか気持ちなんて思い出せないことの方が多い。

 

私は薄情者なのかもしれない。というか、薄情者なんだと思う。

だけど、恋は幻。結局は当時の彼氏と付き合っていた時の私は魔法にかかっていて、別れて3年経った今、もうその魔法はとうの昔に効力を失ってしまった。

だけど、見た目が好みという最強のカードは魔法でも幻でもなんでもなく、いつまでも自分の心の中に掲げられている。

人の見た目はそう簡単には変わらない。

失礼な話、つばめくんがもしもホームレスになったり、何か事件を起こしてしまったとしてもあの顔は変わらない。つまり私はあの顔がこの世に存在している限りつばめくんのことを嫌いになることはない。

 

今でもつばめくんとの出会いには感謝してるし、何よりつばめくんに対して、生まれてきてくれてありがとうと思っている。そしてつばめくんと同じ惑星、そして同じ時代に生まれ、同じ高校に入学して同じクラスに編成されるという、確率を計算したら目が回るような数字が出てくることが数学が全く出来ない自分でもわかるレベルの奇跡を起こした自分に大きな拍手を送りたい。強運すぎる。

 

 

人は見た目が100パーセント、なんてドラマが過去にあったけど、見た目が100パーセントだなんて私は思っているわけじゃないし、人間大事なのは中身だよって言葉に対してもその通りだと思う。

誰が何を重視して、パートナーや想い人を決めるかなんてその人の自由。私だって顔さえ良ければ誰とだって結婚できるなんてことを言っているわけではない。つばめくんレベルなら話は変わってくるけど。

 

だけど、おそらくこの地球上に存在する男性の中で自分の好みにいちばん合う人間と、齢16程にして巡り会い人間性を捻じ曲げてもらえたことは大いに感謝すべきだと思うし、とてもとても幸せだと思っている。この記事で何が言いたかったかというと、つまりはこれに尽きる。

顔面至上主義です!!!絶対に顔のいい男と巡り合って恋愛します!!!なんてことが言いたかったわけじゃない。

ただ、私はつばめくんという男性と出会ってひとつの大事なアイデンティティを手に入れたと思っているし、はちゃめちゃにラッキーな経験をした。

 

 

 

なんだか突然つばめくんのことを思い出して胸が熱くなる夜がたまーーにある。

そんな夜が数日前ひょんなことからやってきて、この気持ちを記事にして残しておきたいとその時強く思った。

 

今回の記事は道筋のない殴り書きだったから、文の構成も悪いしよくわからない、オチもない、そして何より話の論点や軸がブレてる部分がたくさんあると思う。

だけどそれを含めて私がつばめくんを思う気持ちの大きさだと思って今回ばかりは大目に見てもらいたい。

 

 

最後に、私はもう死ぬまでつばめくんには会いたくないと思っている。

だけど、もしいつか、ふとした瞬間にどこかでつばめくんを見かけることがあったら、電柱の陰に隠れて、私の存在に気がつくことのないつばめくんを5秒間だけ見つめていたい、とも思う。

きっともう会うことはないけど、ずっと私の中に存在する「最強の男」という椅子に座り続けている最強な男のお話でした。

 

 

おしまい

 

 

SAKEROCK / SAYONARA

正義の取捨選択

 

アラミスが獣神化しました。

私が文末に「アラミス獣神化しないかなぁ」と書いた記事を投稿した約1時間後に。

もしかしたらこのブログは、記事の締めにボヤいた願望が実現される不思議な力を持っているのかもしれない。いやそうに違いない。これを利用すれば全てがうまくいくかも知れない。

そんなことを考えながら書きます、記念すべき2回目の投稿です。

 

記念すべき2回目。

記念すべきは2回目ではなく1回目なのではないかと誰もが思い私に全力で石を投げていることが容易に想像できる。

でも1回目の投稿は言わばご挨拶、自己紹介こそしなかったとはいえ、所謂初投稿にありがちな「ブログを書き始めようと思った理由」を皆さまにお送りした。(読んでくださった方本当にありがとう。あなた方は今私に向かって石を投げてはいないだろうと心から信じている)

それは、言ってしまえばあの時いちばん書きたかったことではなく、書いた方がいいだろうなと思って書いた記事に他ならない。(もちろん書くこと自体はものすごく楽しかったということだけは特筆しておきたい。)

つまり、2回目の投稿こそ自分の書きたいこと、感じていること伝えたいこと、それを初めてブログというツールを使って外へ放出する記念すべき真の1回目だと思っている。

 

こんな前書きをしてしまうとものすごくハードルが上がってしまうということに、今しがた気が付いた。

言い訳のようになってしまい申し訳ないが今から書くことは記念すべき2回目の投稿のためにあたためてきたネタでは決してない。今私は休日である明日への想いを馳せながら必死で仕事を終わらせ、録画しておいたアンナチュラルを観ながら夕飯の焼うどんを食べ終わり、ベッドに寝転がって「ブログでも書くかー、なに書こうかなぁ」と思い立ち、たまたま枕元に置いてあるスマホに手を伸ばしてはてなブログのアプリを開いたところである。

 

なのでここから先はあまり期待しすぎずに読み進めて欲しい。これから書くことはあまり人からの共感を得にくいネタだと思っている。

 

 

 

人間には三大欲求と呼ばれるものがあることを、その中身について特に詳しく書かなくても大抵の人間は知っていると思う。

ただこれから書くことにその三大欲求はほとんど関係ない。ならなぜ三大欲求という言葉を出したかと言うと、これから書こうと思っていることがその三大欲求という言葉や性質ととてもよく似ているような気がすると、今さっき感じたからだ。

 

「衣食住」

 

ある程度の年月を日本で生きていれば、誰でも一度は耳にしたことがある言葉だと思う。「三大欲求」のように、ちゃんとした名称は付いていないけど(私が無知なだけでもしかしたら付いているのかも知れない。とりあえずザッと調べてみたところそれらしきものは見つけることができなかった)まぁ、「三大生活基盤」とでも名付ければいいのだろうか。

 

憲法第25条に、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とあることは、何年も前に社会科の授業で教えてもらった。(これが憲法の何条だったかと、微妙な文章のニュアンスに関してはさっきウィキペディアで調べた。ちゃんと覚えていなくてごめんなさい。先生。)今改めて冷静に見てみても、当たり前のことを言っているように見えてこのルールが定められている日本は割と良心的で優しい国なのではないかと思う。

この憲法に定められている「健康的で文化的な最低限度の生活」が出来ているかどうかを判断する材料になるのが、「衣食住」だと私は思っている。

難しい言葉で書かれてはいるけど、外に出るために着るものがちゃんとあって、餓死するかもしれないと不安にならない程度のご飯を食べることができて、そして帰る家がある。この国に生まれた全ての人間がそうなれるように国は頑張りましょうよ。要はこういうことでおおよそ間違いはないと思う。

 

ここからが本題なのだけど、

(前置きが長くて大変申し訳ない)

私はこの「衣食住」の中で、「住」に対するこだわりや執着が平均値よりもバカ高い。

 

私は今、大都会東京のそれも23区内で一人暮らしをしている。寒い寒い雪国で育ち、東京への憧れが人一倍(どころか5億倍くらいはあったかもしれない)強かった私は、高校卒業後、東京の大学に進学して念願の東京での一人暮らしをスタートした。

そしてその時に入居した家に今も住み続けている。大抵の人にはドン引きされるが、もう10年以上同じ家に住んでいることになる。

この家に入居した当時、高校卒業したての私はちゃんとした物の価値やお金を稼ぐ大変さなんて全く知らない世間知らずだった。

話は少し脱線するけど、私は大学を卒業して社会に出るまで、お金で苦労したことがほとんどない。高校生くらいまでは友達にも「うちは貧乏だから〜」とか、「うちマジお金ないよ〜妹いるしさ〜」なんて言ってまわりに話を合わせていたけど、ほんとは小学生の時から気付いていた。うちは大金持ちではないけれど、小金持ちとは言えるであろう家柄で、少なくとも貧乏ではない。お金は余っているわけではないけど、姉妹3人が不自由することなく暮らしていける程度の資産はあるのだと。

決して甘やかされていたわけではないと自信を持って言える。お金のあるお家の子どもにありがちなのかもしれないけど、親が教育熱心だったため学校の勉強や習い事、生活習慣に関してはむしろ厳しく育てられたので親に対する不満が当時は絶えなかった。

でも、勉強道具や習い事に必要なもの、当時はわからなかったけど毎月支払う先生へのお月謝の金額などを考えたら私はとても恵まれていて、最高に文化的な生活を送らせてもらっていたと思う。感謝である。お父さんお母さんありがとう。

 

この記事は両親への感謝を伝えるために書こうと思ったわけではない。話があまりにも脱線しすぎである。話を元に戻します。

 

今までの話を踏まえた上で考えればお分かりいただけるであろう、私が大学に入学する際に入居して今も住み続けているこの家は、大学までのアクセス良好、駅近で近くにスーパーもあり、オートロックでバストイレ別、そして住所はもちろん東京23区内。

 

家賃が安いわけがない。これで安かったら絶対に何かあるだろうというレベルで快適なおうちである。

私の両親は私の初めての一人暮らしを案じて、多少の出費は惜しまずに、大切な娘が安心して暮らせる家を文句ひとつ言わずに借りてくれた。そして大学の4年間そこで私は真面目に学び、そして時には羽目を外し、素晴らしくも破天荒な思い出をたくさん作った。

とても快適だった。この家が大好きすぎる。どこよりも居心地がよく、心から安らげるこの家が私にとって宝だった。

 

そして大学卒業の時。

社会に出て、親の手から離れ自給自足の生活が始まる。

当然、家賃も自分で払わなくてはいけない。

現実的に考えたら引越しである。社会に放り出されたばかりの小娘が毎月滞りなく支払うには少し、いやかなり厳しい金額だと今考えても思う。

 

新しい家探しは楽しかった。期待に胸を膨らませ、新たなる憩いの場を探しに行く楽しさ。「住」への執着が強すぎる人間にとって新しい家探しは人生そのものであると言っても過言ではない。

 

ただ、そこからは少し想像と違う方向へと進んでいった。

 

「新しい最高のおうち」が見つからない。

その時に引越す理由は端的に言えば「家賃を下げたい」からだ。当然である。自給自足の生活をしていくためにはある程度仕方のないことだった。希望の家賃を今の「最高のおうち」の家賃より下げて、都心からも少し離れたところをまわっていくうちに私の心はどんどんくすんでいった。

 

住みたいと思えない。「住めば都」ということわざがあるけれど、なんとなく直感的にそうも言えないような気がする。なんとなく違う。「毎日帰るのが楽しみな最高のおうち」の予感がイマイチしてこない家ばかりだった。

 

思い返せば大学4年間、我ながら嫌な奴というかキモいというか陰気というか、あまり胸を張って言えることではないけれど、家を出る瞬間から家に帰りたいと思っているような学生だった。大抵の女子大生は講義の後に学食でみんなとごはんを食べながら恋バナをしたり、駅前のスタバで新作を飲みながら嫌いな先生の悪口を言ったり、そういうことを楽しみにして家を出る人が大半なイメージだけど、私にとって1日の楽しみは「家に帰る」ということだった。

午前中で講義が終わる日、私はごはんを食べずに家に帰って昼ドラを見ながらカップラーメンを食べたいと思っていたし、スタバの新作には興味がなかったから、早めに家に帰って撮り溜めたドラマを消化したいと思っていた。これだけ聞くとテレビが好きな子みたいだけど(もちろんテレビ大好きな生粋のテレビっ子ではあるけれど。)詰まる所、家が大好きだったから。それが大きな理由だったと思う。

一応言っておくと友達がいないわけではなかったし、午前中に講義を終えて家に帰ろうと思っていたところに友達から誘われてごはんを食べてから帰ったことだって何度もある。別にそれが苦痛なわけではなくそれはそれで楽しい時間だったし、学食中に響き渡るような声を上げて腹を抱えて笑ったことだってある。

それでもやっぱり根底には「家に帰るの楽しみだなぁ」という気持ちがあった。これも一応書いておくけれど、「こんな時間つまらないから早く家に帰りたいなぁ」という気持ちとは違う。この時間がつまらないから家に帰りたいなんて家に失礼である。今この時間がつまらなくたって楽しくたって、とにかく家は最高。それは揺るがない事実だし、ここが家ではない限り私は家に帰りたいと常に思っている。ネガティヴな意味ではなくて。

 

これだけ書けば私がどれだけ家を愛していて、そして執着しているのかお分りいただけただろうと思う。

 

いろんな家を見ていろんな話を聞いた上で、私は一つの決断を下した。

 

引っ越しはしない。

 

親は慌てふためき反対したし、そんなバカなと腰を抜かしそうになったことだろうと思う。

何もかもを譲る必要はない、ただひとつだけでも譲歩して、無理なく暮らしていける家に決めてほしい。親ならそう思うのは当然だし理解できる。

でも、譲れない。何も譲れないのだ。都心まで出るのに時間がかかることも、ユニットバスであることも、部屋が今の最高のおうちよりも狭いことも、独立洗面台がないことも、天井が今の最高のおうちよりも少し低いことも、どうしても譲る気にならない。「住む」ことに対してどうしてもひとつも我慢したくなかった。

自分の家。賃貸とは言え家賃を払う以上自分の家だと言っていいと思っている。そこはやっぱり最高の場所であってほしい。

全ての条件を譲らない代わりに、高い家賃という条件を飲もうと決めて親を説得した。これは私の中の優先順位に忠実に従った、言わば正義の取捨選択だったと思う。

 

ものすごく柔らかくて口に入れた瞬間とろけるような最高級のお肉も、キラキラ輝いて見えるブランド物の洋服も、すごく価値のあるものだと思う。だけどそれよりも私はくつろげる空間、最高の我が家を欲していた。

 

例えば、誰もが目を見張るような豪邸に半額シールの貼ってあるお惣菜を買って帰り、それと冷凍しておいた昨日の余りのごはんに塩をかけて食べるとか。

高級百貨店の地下で売っているグラム5000円する牛肉を片手に家賃2万円の家に帰るとか。

ハイブランドな洋服を両手いっぱいに抱えながら立ち食い蕎麦屋さんで夕飯を済ませるとか。

わかりやすい例え話に過ぎないけど、これらを私は矛盾だとは思わない。正義の取捨選択の結果なんだろうと思う。極端ではあるけれど。

 

もちろん衣食住の全てを平均的なレベルに整えて生活していくのもひとつの取捨選択の結果だと思うし、言ってしまえばそれが普通なんだと思う。だけどそんな風に器用に生きられない自分みたいな、極端にひとつの生活基盤に情熱を注いでしまう人も少なくない。

 

社会に放り出され、死ぬほど嫌なことを経験し、お金を稼ぐ大変さを痛感した。後々きっとブログに書くことになると思うけど、本当に大変なことが数え切れないくらいあった。正直毎月家賃を払うのが苦しくて泣きたくなる時もあったし実際に泣きながら眠りに就いた日もある。だけどそれでもこの家に住めていることが嬉しかったし幸せだった。

この苦しみが食のためだったり身に付けるもののためだったら、私はここまで踏ん張れていなかったと思う。家が大好きで、家にいる時間が何より幸せ。夕飯は半額のお惣菜でいいし、明日着る服はクローゼットをあけて一番手前にあったものにしよう。そこにこだわりはない。

この家のためだからこそ頑張れる。まるで我が子のために身を粉にして働く母親のような気持ち。そうやって私はこの家と共に10年以上生きてきた。

 

長い長いこの記事もそろそろクライマックスに突入する。

ここまで書いたことを踏まえてこの先を読み進めていってほしい。

 

 

私は今、引越しを考えている。

というかほぼ心に決めている。

 

 

ここまでのエピソードはなんのためだったのか?時間を返せと槍の飛んでくる音が聞こえる。あと少しだからどうか聞いてほしい。

 

上京してきてすぐの私はまだまだ純粋だった。

この家が最高で最強だと信じていたし、実際にそうだった。それは間違いない事実。

 

だけどそれから月日は流れて私は今30歳を目前にしている。あの頃に比べたら抱えているものも、放出したいものも、そして「家」に求めるものも少なからず変わっている。

数年前くらいから思うようになった。

 

(この家、狭いなぁ…)

 

10年前には考えられなかったことだけど、今の私にとってこの家は少し狭い。仕事でもそれなりの立場に立つようになって、管理すべきものとか大事にしているものもあの頃に比べたらものすごく増えた。

今の私にとって、少しずつこの家が「最高で最強の我が家」では無くなってきていることを、私は感じ始めている。

 

これはとても喜ばしいことで、あの頃に比べたら当然だけど少なからず収入が増えた。あの頃の自分がやきもきしながら一世一代の賭けのような気持ちで飲んだ「家賃」という条件。その条件を引き上げて、さらなる最強な我が家を探すことができる自分が今ここにいる。

うまくいけば、来年の今頃は新しい最高で最強の我が家でブログを書いていることになるだろう。

楽しみと同時にとても寂しい気持ちがどうしても拭えない。私はこれまでこの家のことをとても大切な相棒として考えてきたけど、家は喋らないし気持ちを伝えてくることはない。

私がいくらありがとうと言っても伝わっているのかどうかはわからないし、私が引っ越すことを恨み悲しみ泣いているかもしれない。私はこの家が大好きだけど、大好きなのに、この家がどんな気持ちで今の私を包み込んでくれているのか知ることができない。

だからこそこの記事で、この家の素晴らしさとかこの家で私がどれだけ癒されてきたか書こうと思ったのかもしれない。この家を出る前に形として、言葉で残しておきたかったのかもしれない。

 

今後、新しい最高で最強の我が家に引っ越すことができたとしてもこの家がどれだけ素晴らしく尊いものだったかは絶対に忘れないし、辛い時苦しい時を共に乗り越えて成長してきたからこそ今の自分があると本当に思っている。

私がここを出たあと、きっと新しい人がここに入居するだろうけど、私と同じようにこの家を愛してこの家のために頑張ってくれる人であることを切に願う。

 

 

ここまで書いておいて大変恐縮ではあるけど、現段階で引っ越しは「します」ではなく「したいです」であることを主張させてほしい。

そして1年後、まだこの家でブログを書きながらゴロゴロしていたらどうか皆さんに笑ってほしいと思います。

 

 

この記事を書くのにおよそ2時間弱かかりました。暇かよ。いや暇だよ。暇つぶしのためにブログを書くって最初の記事に書いたろうに。

ここまで読んでくださった方も相当お時間を持て余している方かと思います。

ブログを読んだよと言ってくだされば金閣神殿を1回分サービスいたしますのでご遠慮なくお申し付けください。

 

 

あたりに散らばっている石と槍を拾って片付けたらお風呂に入って眠りに就こうと思います。

 

 

職場の人からいただいたかわいいスリッパの画像をツイートしたら、ブログ云々書いてそれなりにいいねをもらった記事のいいね数を簡単に超えました。そんなもん、だよなぁ。

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明日の朝イチ、グリファンシングルでデドラビ出ないかなぁ。

 

 

 ♪フィルム / 星野源

 

 

3人目の自分

 

ブログを始めてみました。

何気なく、ブログ書こうかなぁとツイッターでつぶやいたところ、思った以上に(と言っても5〜6件)いいねをいただいていい気になりました。

 

思い返せばブログなんて、ひと昔前に第一次ブログブーム(?)が到来した時に当時ジャニヲタだった中学生の自分が色んな人と交流したり友達が欲しいと思って興味本位で書いていた時以来の再開なので、もはやセカンドブログ童貞みたいなもの。まぁ私は女ですが。

色んな人のブログを読んでいると、大抵いちばん最初の記事は自己紹介だったりするんだけど、特に紹介するほどの大した人間ではないし、そもそも誰かのために書いているわけではないので必要ないかなと。

かといって最初の記事からいきなり長文殴り書きの狂気染みたポエムってのも自分で自分が嫌いになりそうなので、ブログを書こうと思った理由を書いてみます。

 

①文章を書きたい

物心ついた時から、体を動かしたり積み木やパズルで遊ぶよりも本を読んだり母とサシでお喋りするのが好きな子どもだった記憶があるし、親からもそう聞いている。

ブログ云々つぶやいてたくさん(とは言え5〜6件程度※大事なことなので2回)いいねをもらったツイートにも書いたけど、私は思ったことや感じたことを文章や言葉にして放出しないと死んでしまう病なのかも知れない。病的に独り言も多いし、基本的に私の書く文章や送るLINEやメールは長い。書きたいことや伝えたいことが多すぎる。それをコンパクトにまとめられないのは私の頭が悪いからに他ならないのだけど、思ったことを自由に書ける場所が欲しいと思っていた。

ツイッターだとフォローしてくれている方のTL一面私のツイートで埋まってしまうのが申し訳ないしなんとなく恥ずかしい。でもブログなら自分の意志でURLをタップして、もういいやと思ったらページを閉じてもらえる。そこに気楽さとか安心感を覚えたので、ブログいいじゃんと思った。

これがひとつめの理由。

 

②自分自身を知りたい

なんかちょっとアレな人に思われてしまうけど(まぁ、実際アレな人なので特に弁明はしません)私は自分で自分の文章を読み返して初めて自分の気持ちを知ることが多々ある。(これが普通のことなのか奇特なことなのかはわからない。)

基本的に自分はロジカルな人間でいたいと思っていて、何かを決める時、まずは理性的に常識だとか世論だとか人の目だとか、まぁこれらが「ロジカルな人間」に結びつくのかどうかはわからないけど、そんなことを考えながら大きな思考のタワーを作る。

そして大抵自分はその大きなタワーを、本能的な感情論でなぎ倒す。まるでゴジラのように。

30年近く生きてきたけど、大事な局面での自分の選択や行動は大抵このテンプレートに基づいていたように思う。それが良い方向に転んだ時もあるし、悪い方向に転んだ時もあるけど。

感覚としては、自分の中にふたりの自分がいるような感じ。そしてそれを傍観している自分もいるから計3人の自分が存在しているようなイメージで私は生きている。

そしてここで大事になってくるのは、このブログを書いているときの自分は3人目の「傍観している自分」であるということ。

元々はロジカルシンキングでありたいと思っている自分がいることも、そしてそんな自分にギリギリ勝てない感情的な自分がいることも、3人目の私だけが知っていることになる。(この辺で自分でも何が何だかよくわからなくなってきている)

でも、その3人目の自分がその時の気持ちとか思ったことを文章として残しておけば、後々1人目の自分も2人目の自分も、何が自分の中で起こっていたのか知ることができるし、冷静になれる。はず。

自分自身を知りたいってのはつまりそういうことなのだと、これもここまで書いて自分自身初めて気が付きました。

 

③暇つぶし

いや、正確に言うと暇ではないはず。

いい歳した独身女性。それなりに胸を張れる仕事もしているし、もちろん私にも1日は24時間しかないから、絶対的に暇ではないはずです。(お金はありませんが)

でもどういうわけか、暇だなぁ、なんだろう、なんか私今暇を持て余しているなぁと思う時間が週に1〜2回はある。仕事しろやって話ではあるんだけど、うーんそういうことでもない。そういう時間がなぜかある。

その時間をブログ書く時間とか、ブログ読み返す時間に当てたら自分の人生に少し色が付くんじゃないかなと思った次第です。

 

 

すんげー。長い。①で書いた事項を裏切ることなくとにかく長い。伝えたいことが多すぎる、気持ち悪い。でも許される。ブログだから。最高。

 

ひとつ言っておきたいのは、このブログは誰かに読んでもらうために書くのではなくて自分自身が読み返すために書いている。まさに②の理由なんだけど。

それなら100均で大学ノートでも買ってきて、勝手に書いて勝手に読んで悦に浸ってればよいではないかと思われてしまうだろうし、私もそう思う。

それでもブログという形を選んだということはもしかしたら誰かに読んでもらいたいのかも知れないし、誰かに共感して欲しいのかもしれない。自分のこういうところ、本当に吐きそう。

 

ここまで読んでくださった方には感謝しかございません。ありがとうございます。

 

締め方もよくわからないし、書きたいことはとりあえず書いたのでここで終わりにしますが、最後にタイトルについて言及しておきますと、これは常日頃自分が心の奥底で叫んでいるセリフであり、多分私だけじゃなくて人類すべてにおける切なる願いだと思うんだけど、ここまで自分の気持ちを端的に表わせているセリフってないなと思ったのでせっかくなのでブログタイトルにしました。

 まぁ、大抵のことはうまくいってない人生です。

 

アラミス獣神化しないかなー。

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♪sweet spider / indigo la End